歴史-31

神明社跡・桃雲台

所在地 港北区綱島東2-2
 当社は綱島の地に人家建ち始めし頃の創立といわれる。南北綱島村の鎮守さまで、百段をこえる石段を登りつめたところに建てられている。永禄の頃に諏訪神社が設立され、諏訪神社が村社となったため、当社が明治6年12月無格社となった。大正の初期、社殿が荒廃したため、諏訪神社に仮合祀し、社殿を取り払ったが、昭和6年5月新築再興した。
 その後、社殿が荒廃したため取り壊し、その代わり石碑を建立した。
 神事と芸能「桃まつり」が4月10日に行われている。
 また、綱島がまだ桃の里をであったころ、ここの頂上から見わたす春の綱島の町は、あたかも桃色に染まった霞がたなびくように美しい眺めであったという。横浜貿易新報社(現神奈川新聞社)の社長は、ここを桃雲台と名付け(神奈川試験所富樫常春氏が名付け親)県下の一名勝地にかぞえた。(昭和10年、かながわ名勝45佳選に選ばれた。)

歴史-32

柿坂(公園坂)

場所 港北区綱島西1-2 ~綱島台1

昔から、里人から柿坂と呼ばれ、坂の途中に屋号を柿坂という加藤家があり、恐らく庭の端に柿の木の大木があったものと思われる。また、別所谷戸の人々からは駆け坂(かけざか)又は崖坂(がけざか)とも呼ばれ、急峻な坂で追いはぎなどが出没したとも言われている。

 

 

歴史-33

おいなりさん(綱島稲荷)

場所 港北区綱島西1-3
 今から140~150年前、佐藤曽右衛門宅個人の守本尊として祠ってあったが、途中で中村(今の中町、上町などのような町名)の人達と一緒に、「稲荷講」というグループを作り、米など作物の豊作を願ってお詣りしていた。戦後は、2月の初午の日には毎年、油揚げ、みかん、お菓子等のお供えものをし、それを子供達に配り、大人にも子供にも楽しい行事として盛んであった。
 現在では、新しいグループができ、商売の繁盛を願ってお祠りしている。
歴史-34

綱島公園

場所 港北区綱島台1

 本公園は綱島駅の北方約300m、北緯35゚32′15″東経139゚38′20″に位置する。
 この山は地元では平四郎山とも呼ばれ、その頂部は元の地主池谷家では俗称「ちょうしん塚」と呼び、古代の墓地として代々守って来た。この付近はその昔、鷹狩りのため放し飼いされた高麗雉の養殖地であった。
 明治45年の陸軍の関東大演習の際に、北白川宮殿下がその大地にて指揮したと言われている。第二次大戦の末期には、高射砲陣地として強制的に軍に買収され、防災公園と呼ばれた暗い時代もあった。1952年綱島古墳丘南西裾部に「桃里庵」と称する茶屋が建てられたが今はない。現在ではテニスコート(プール)やログハウスが建てられ、市民の憩いの場となっている。春には桜祭りが催され、広場では各自治会共催による演芸が行われたり、出店がでたりして、たいそう花見客でにぎわう。

歴史-35

ちょうしん塚(綱島古墳)

場所 港北区綱島台1 (綱島公園内)

 本古墳は、綱島駅の北方約300mの綱島公園内に位置する。下末吉台地のほぼ中央部の一部を占める綱島台は、標高約30mの丘陵性台地である。南西に開く馬蹄形状の独立丘で、平野部との比高は約26mである。古墳は、台地南東部の最高所に立地し、墳頂部の標高は約34.76mである。墳形と規模については、断定できないが、東側に約10m低い張り出し部を併設する径約20mの円墳としておく。(綱島古墳1989)本古墳の年代は、概ね5世紀後半~末葉の幅の中におさまるものと考えられる。

 

 

 

 

歴史-37

石仏群

所在地 港北区綱島台3(綱島上町自治会館隣り) 

刻銘「堅牢地神塔」天保十四年卯六月吉日三角頂碑(地神塔)高56cm幅25cm厚16.5cm

 地神とは、稲の穂を持ってきた神とか、あるいは春の社日に来て田畑に出て作物をつくり、秋には帰ってゆく作神と考えられている。そのため農村地帯で信仰され、部落(小字)単位で講が組織されたので、塔造立も単に講中となっているものが多い。地神講とは、春分・秋分に最も近いツチノエ(戌)の日を「社日」といい、一般にこの日は土を動かしてはいけないという禁忌があり、この日一日は畑仕事はしない。そのかわり、当番の家に集まり地神の掛け軸を床の間にかけ、又は地神塔の前に集まり地神を祀る。この講中が地神講である。

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