力 石 |
所在地 港北区綱島東2-10-1 刻銘 |
正月や盆休み、田植正月などの農休みになると、村の若者たちは、当時の数少ない娯楽の一つとして、力くらべをするため、村の鎮守へ集まり、草角力が神前において行われた。 現在、神社に行くと、丸い玉子形の石に二十貫とか三十貫とか彫ったのを見ることができる。これが当時、力くらべに使った石である。二十貫から五十貫位の石を肩の所まで持ち上げるもので、これに使う石を一般に「力石」という。 もう一つは、二十貫前後の石を頭の上まで持ち上げるもので、この石を「さし石」と呼んでいた。天保2年に南北綱島村の名主、飯田家と池谷家が「持ち石」と「さし石」をそれぞれ一個ずつ奉納し、これを持ち上げた力士「岩槻卯之助」と「大木戸仙太郎」の名が刻まれている。 |
荒井権現・大袋稲荷 ※ 大袋は旧南綱島村 字名 |
所在地 港北区綱島東2-10-1 荒井大権現 建立時期 寛成元年酉(1789) |
荒井平吉は代官手代にして亨保年中に於ける早淵川及び鶴見川通堤防改修土木工事に多大の貢献をなしたので、村民は其の徳を敬慕して鶴見川の左岸鷹野橋近近傍に石祠を建て、以て美徳を今日に伝えている。 「刻名文化二年(1805)五月吉日、大袋稲荷大明神寛政三年(1791)十一月吉日」戦後鶴見川改修に伴い、現在の諏訪神社境内に移転した。 |
庚 申 塔(こうしん様) |
刻 銘 総高40cm 天明四年 |
道祖神のとなりに、小さなお堂の中に入っている。足や腰などが痛い時お祈りする神様で、なおった時は必ずわらじをあげることになっている。現在でも、わらじがたくさんあがっている。 |
諏訪神社 |
所在地 港北区綱島東2-10-1 御祭神 建御名方命 末社 琴平社 三峯社 荒井社 稲荷社 |
綱島は往昔、綱島三郎信照の采邑で、永禄の頃、武田家の家臣が信濃国諏訪明神を勧請し、社殿を建立した。「新編武蔵風土記稿」に「諏訪社字下にあり、南北の鎮守にて前に鳥居を建つ、石段35段を上がり、又50段よじて社前に至る、神像長さ9寸許前に神鏡を置く。勧請詳からず、例祭、7月27日」とある。元禄12年に再建が営まれ、その後数度の造営ののち、明治6年12月 村社に列格、大正12年震災のため倒壊したが、昭和元年に再建した。しかし、昭和36年7月10日神体像を除く本拝殿等が焼失した。多くの町民の懸命の努力により、昭和48年壮大な社殿が完成し、昭和49年一切の整備を竣功した。例大祭日は8月最終土・日曜日に行われる。 神事と芸能 武蔵の国一円の力自慢を集めて毎年草力士が神前において行われていたが、今は暫く行われていない。 |
地神塔 |
所在地 港北区綱島東2-10-1 刻銘 総高37cm 嘉永六年 |
道 祖 神 |
所在地 港北区綱島東2-10-1 |
この道祖神は、昭和35年頃までは東町の「一力」のそばに二つ、もう一つは通称「たばこや」付近にあったが現在は、諏訪神社表口階段の向かって右にある。昔は、この道祖神の碑が検見道の出発点となっていた。今でも「せいとの日」といって1月14日の朝、道祖神の前で古いお札や、お正月に飾ったおかざりなどを焼き、それでおもちを焼いて食べる。庚申様のわらじも、この日に焼く。 |
八幡宮神威石 |
所在地 港北区綱島台28-1 現住職 佐々木典丸 開基 佐々木賀典(綱島十八騎の中の一人) 御本尊 阿弥陀如来 |
昔、江戸に長福寺の檀家で、近江源氏佐々木氏の末流に当たる信仰の厚い山田左衛門宗慶という人がいた。病に臥したときに八幡大菩薩と思われる童子が現れ、その日から病が快方に向かった。下野国所用の折り、東照宮に参拝した帰りに珍しい石を見つけ、江戸に持ち帰り、八幡宮の綱島跡影(あとかげ)を彫刻し、大事に安置した。その後、長福寺五世典栄に元禄6年9月14日の夜、夢の中に三人の菩薩が現れた。 |
長福寺 |
所在地 港北区綱島台28-1 現住職 佐々木典丸 開基 佐々木賀典(綱島十八騎の中の一人) 御本尊 阿弥陀如来 |
「新編武蔵風土記稿」によると「字中村にあり浄土真宗にて京都東本願寺末綱島山と号す」とある。戦国時代に西国の落武者で、綱島十八騎というものがあって、その中の一人、佐々木賀典が出家し、関東のこの地に浄土真宗綱島山長福寺を開山したという。「港北百話」によれば、佐々木賀典法師が文禄元年(1592)9月3日、現在の地に開基したという。法師は近江源氏の流れを汲み、近江の国佐々木義秀の家臣であった。現在の住職が14代目にあたり、代々世襲制で、東本願寺の末寺としておよそ400年の歴史を有す。 |
諏訪宮東門・弁財天 |
諏訪神社東門 |
弁財天 |
三角形の池の小さな中之島の祠 |