鶴見川改修記念碑 |
所在地 港北区綱島東 1-8 建立者 池谷義旺 建立年月日 慶応三年 |
この碑は池谷家門前向かって左側にある。 表面に芭蕉翁の句「あかあかと日はつれなくも秋の風」と義旺の父「桐林斉与四郎」俳号鳳山」の句を並記し、裏面に鶴見川の改修に腐心した与四郎の実績を列記し、最後に義旺自信の俳句を書き記した。 |
池谷家 |
所在地 港北区綱島東 1-8-29 |
池谷家は綱島駅東口綱島街道を越えて約3分の所にあり、江戸時代は南綱島村の名主として、北綱島村の名主飯田家と共に歩んできた。当家は約200年前の寛政7年6月、餅つきの晩に大火により焼失し、その後再建されたもので間口14間、奥行7間の約100坪にも及ぶ大きさで、昔から箱根山を越える迄はこの大きさの家は見つからないと言われてきた。その後関東大震災の時は、三棟あった土蔵は倒れたが、母屋は残りその後、藁屋根はトタンに変え、昭和58年に現在の銅板ぶきとなった。 |
日 月 桃 |
現栽培地 港北区綱島東 1-8 (池谷光朗宅地内) |
池谷光朗の先々代道太郎は鶴見川沿いの低地を掘り、櫟などの苗木を植え薪を作り、また桑を植え養蚕を始めた。更に、鶴見川沿岸の土質が桃栽培に最も適した排水の良い畑地であるため、明治36年川崎市上平間の田島健蔵の斡旋で苗木50本を購入、翌37年同小向より苗木100本、大師河原の伊藤市郎兵衛より早生水蜜桃300本購入した。以来栽培一途に専念して綱島桃の先駆者となった。従来の品種は炭疸病の被害が甚しいので38年全部接ぎ木をして専ら早生水蜜桃の栽培に全力を注いだ。綱島桃が外国種アムステンジューンを栽培して炭疸病で全滅した時に、これに屈することなく道太郎は「日月桃」と言う新種を発見した。日月桃は六月中旬より収穫でき、少面積で米代金の三倍強の収益をあげることができることから、全国から苗木の注文が殺到したという。大正12年第一回桃果品評会が催されて以来、日月桃は品評会において数十年間常に上位に入賞し、優等賞・県知事賞を独占していた。日月桃が日本一であると評価されるに従って他府県にも多く出荷されるようになり、三越・銀座千疋屋・新宿高野・新橋水信など超一流店で販売されていた。これも第二次世界大戦を境に神奈川県の命令により桃を伐採して、主食となる米麦を作ることとなったため栽培されなくなったが、現在唯一、池谷光朗宅地内にその面影をみることができる。 |
鷹狩り |
場所 港北区綱島東 |
幕府は、武勇の奨励と有事に備えて江戸を中心とする周辺、江戸川、多摩川、六郷、目黒、品川、小金井、そして綱島に鷹狩りのための鷹場を設けていた。亨保(1716~1736)の頃、朝鮮国王から献上された高麗雉を繁殖させるため、現在の綱島公園を中心とした山々に放し飼いさせ、その管理を農民に任せていた。鶴見川をはさんで綱島と駒岡の境にある鷹野橋には、その名残をみることができる。 |
百叩き刑場跡 |
場所 港北区綱島東1-8 |
綱島橋付近は、交通上便利だったので「楹舎」(一時留置所)をつくり、さぎ、おどし、せっとうなどの軽い犯罪者を入れ、取り調べるために、係りの役人が出張してきたと言われている。これらの犯罪者の仕置きには「百たゝき」があって役人が「むち」で百回たゝいて仕置きするのである。 |
三基地蔵 |
所在地 |
大崎道を北に進むと左側にアパートがあり、その脇に地蔵堂がある。 |
水 車 (じゃばら) |
所在地 港北区綱島東 2-14 |
潅漑用水から小用水へ、また小用水から田圃へ水を引くときに用いられた木製の人力揚水機である。足で踏むものと、手で回すものと二種類あった。構造は一つの軸から放射状に機が出て、機の端末に四角い板が取り付けられ、これを回転することにより揚水したものである。 矢上川用水は日吉の矢上川に堰を設け、所々に水車を人力でこれを回し、上流へ送水していた。 |
矢上川水系用水場 |
場所 日吉3-23(矢上小)から綱島西4-12(いなげや)付近まで |
綱島地区の稲作に使われた用水は二系統あり、一つは早淵川より分水したものであり他は矢上川より分水したものである。 |
おしゃもじさま |
所在地 港北区綱島東 2-18-34(永島金作氏の庭) |
高さ2メートルほどのお堂で、風邪(のど)の神様。 |
綱島東小学校郷土資料室・桃の校章 |
所在地 |
|