歴史-02/08

綱島温泉

所在地

 大正3年(1914年)鶴見川の堤防が築かれることとなり、加藤順造氏が家を移転し井戸を掘ったところ飲用に適さない赤水が出てきたため、風呂用に使用していました。そのうちに持病のリウマチが治ってしまったので、不思議に思い内務省に勤めていた親戚の紹介で分析を依頼しました。内務省温泉研究所の石原博士の分析によると、ラジュウム沃土エマナチオンの含有量が日本で3番目に多いということがわかりました。
 これを契機に初め樽町に温泉旅館が開かれました。綱島でも温泉旅館が建てられ、東京横浜電鉄でも今の東京園の場所に浴場を設け、往復切符の購入者には無料で利用できるようにしていました。駅名も綱島温泉とつけ宣伝に一役買っていました。
 戦中は、軍隊の宿舎や軍需工場の保養所となり,、戦後また一時賑わいました。

歴史-04

稲毛街道 綱島街道

所在地

 江戸幕府の成立により政治の中心は江戸に移り、それに伴って関西と江戸との経済交流は活発になり、諸物資や人々の移動のための諸街道が整備されました。幕府は慶長六年(1601年)伝馬の制をしき宿駅を設けました。主要道には松、杉の並木を作り、江戸日本橋を起点に、一里毎に一里塚を築き行程の目安にしました。宿場としては近隣には川崎・神奈川・保土ヶ谷が定められ、本陣、脇本陣など大名や公用者用の施設が義務付けられました。
 さらに幕府は元禄七年(1694年)助郷の制を定め各宿に助郷会所を設け、宿場の機能が支障なく運営されるようにしました。港北区内は神奈川宿の助郷役に組み込まれました。これにより農民の負担は増えましたが、神奈川宿を起点とする近世道が発達しました。神奈川道・稲毛道・八王子道・相州道など、これらの枝道は主要道の矢倉沢往還・中原街道を横断し連絡する形をとっています。稲毛道は神奈川宿から矢倉沢往還の溝の口に至る近道です。これは鎌倉時代初期源頼朝の重臣、稲毛三朗重成の荘園領地が溝の口を中心に存在し、江戸時代もその名称で呼ばれていたからです。また綱島を通るので綱島街道とも呼ばれています。
 この街道は神奈川宿より西に進み、白楽・妙蓮寺・菊名・港北区役所裏・東横学園前・樽町に入ると大曽根側に大きく曲がり、今の綱島街道を斜めに横切り、その延長線上の河原に綱島橋があり「新編武蔵風土記稿」には長さ15間(27.27m)、幅9尺(2.72m)の土橋があったことが記されています。
 稲毛道はここで左折して駅ビルのあたりを通って東照寺の門前に着きます。ここより台地の麓に沿って西に進み右折するところに来迎寺があります。これより今の高田郵便局まで進み、大きく右折し高田小の西側から下田町を通り溝の口に向かっています。

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歴史詳細(1)
ラジウム霊泉湧出記念碑
東京園
歴史-01

綱島駅

所在地

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歴史-07

橋場稲荷

           

歴史-03

乗合馬車発着所跡

(旧入舟亭前)場所港北区綱島東1-9

 明治の頃まで綱島・樽・大曽根に住んでいた人々は、横浜・関内へ行くには青木橋まで歩いて行った。そこから市電や小さな蒸気船に乗って目的地まで行った。
大正に入って嶋村鐘と池谷長十郎は、ここから東神奈川まで乗合馬車を走らせた。馬車には10人位の人が乗れ、一日数往復し、約1時間かかって料金は15銭だった。
 しかし、東横線が開通すると共にすがたを消した。
その後、昭和4年に乗合馬車にかわって乗合自動車が東横線と併走するようになり、大変便利になった。

歴史-09

旧 大正堤

場所 港北区日吉6-14~綱島西2-25
完成時期 大正3年

 明治43年の水害ののち、矢上川合流点より太尾橋上流までの土手と対岸の大曽根堤の掻き上げ土手を廃し、堤を新しくつくった。大正3年の完成時には、綱島の表前耕地(矢上川合流点)から別所耕地(早淵川合流点)まで、川の左岸749間に渡って150本の桜の木を植え「大正堤」と呼ばれていた。昭和の15~16年頃迄は、大木の桜が美しい花をみごとにつけ、花見客でにぎわっていた。しかし戦争中から、ぼつぼつ老木が枯れはじめ、炭にされたという。
 戦後は建設省の指示により土手に桜の木を植えることは防災上禁じられたが、当時旅館組合が内緒で植えた木も今はほとんどなくなってしまった。

歴史-06

旧 大綱橋(綱島橋)

所在地 港北区綱島東1-11番地先

 応永十二年(1405)鶴見川流域の綱島が孤立した島であったところに橋をかけた。どの橋か現在は不明であるが、史料中に「雁行」とあるから、かなり長い橋であったようであり、「雲引之虹橋」などとも表現されている。
 桐屋の付近から樽に向かって架かっていた木橋は、昭和12年春に架け替えられ、新橋は、鉄筋コンクリートスリースパンラーメン構造の連続橋であった。