綱島温泉 |
所在地 |
大正3年(1914年)鶴見川の堤防が築かれることとなり、加藤順造氏が家を移転し井戸を掘ったところ飲用に適さない赤水が出てきたため、風呂用に使用していました。そのうちに持病のリウマチが治ってしまったので、不思議に思い内務省に勤めていた親戚の紹介で分析を依頼しました。内務省温泉研究所の石原博士の分析によると、ラジュウム沃土エマナチオンの含有量が日本で3番目に多いということがわかりました。 |
稲毛街道 綱島街道 |
所在地 |
江戸幕府の成立により政治の中心は江戸に移り、それに伴って関西と江戸との経済交流は活発になり、諸物資や人々の移動のための諸街道が整備されました。幕府は慶長六年(1601年)伝馬の制をしき宿駅を設けました。主要道には松、杉の並木を作り、江戸日本橋を起点に、一里毎に一里塚を築き行程の目安にしました。宿場としては近隣には川崎・神奈川・保土ヶ谷が定められ、本陣、脇本陣など大名や公用者用の施設が義務付けられました。 |
乗合馬車発着所跡 |
(旧入舟亭前)場所港北区綱島東1-9 |
明治の頃まで綱島・樽・大曽根に住んでいた人々は、横浜・関内へ行くには青木橋まで歩いて行った。そこから市電や小さな蒸気船に乗って目的地まで行った。 |
旧 大正堤 |
場所 港北区日吉6-14~綱島西2-25 完成時期 大正3年 |
明治43年の水害ののち、矢上川合流点より太尾橋上流までの土手と対岸の大曽根堤の掻き上げ土手を廃し、堤を新しくつくった。大正3年の完成時には、綱島の表前耕地(矢上川合流点)から別所耕地(早淵川合流点)まで、川の左岸749間に渡って150本の桜の木を植え「大正堤」と呼ばれていた。昭和の15~16年頃迄は、大木の桜が美しい花をみごとにつけ、花見客でにぎわっていた。しかし戦争中から、ぼつぼつ老木が枯れはじめ、炭にされたという。 |
旧 大綱橋(綱島橋) |
所在地 港北区綱島東1-11番地先 |
応永十二年(1405)鶴見川流域の綱島が孤立した島であったところに橋をかけた。どの橋か現在は不明であるが、史料中に「雁行」とあるから、かなり長い橋であったようであり、「雲引之虹橋」などとも表現されている。 |