綱島は、洪水に悩む貧しい農村だった。
鶴見川の本流と鶴見川に注ぎこむ早淵川と矢上川に囲まれる綱島。激しい雨が降ると、それらの川がしばしば洪水を起こし、そのたびに農作物は大きな被害を受けていた。「綱島には嫁をやるな」そんな陰口を言われるほど。農民たちは苦しい生活を強いられていた。
●当時の大綱橋付近
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「それなら桃がいい」その行商人は言った。 明治30年ころ、川崎から綱島へクワイの苗を売りに来た行商人がいた。水害に悩む農民たちの状況を聞いたその行商人は、水害に強くこの地域の砂質の土壌に適した作物として桃の栽培を勧めた。当時の北綱島村名主、池谷道太郎はこの地域の窮状を救うためにこの桃に賭けてみようと思った。
研究に明け暮れ、ついに新しい桃が生まれた。
道太郎はさっそく苗木を購入し桃の栽培を始めた。当時、桃といえば天津水蜜などの硬い桃が主流であったが、果肉のやわらかい西洋桃が好まれるようになってきていた。研究熱心な道太郎は、植物学者を通じて西洋桃の苗木を数十種取りよせさまざまな栽培を試みた。明治40年、ついに新品種を発見した。それは病害に強く六月中旬より収穫でき、少面積で米代金の三倍強の収益をあげることができる。新しい桃は「日月桃」と名付けられた。
●桃の生育状況を見る池谷道太郎
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だれもかれも。綱島は桃栽培一色になった。 「日月桃」の発見により、桃は安定した収入が得られる作物となった。道太郎は近隣農家にもその苗木を分け、桃栽培は綱島村全域にまたたく間に広がっていった。市場でも味香りがよいという評判になり、綱島のブランド品として定着していった。明治43年には綱島果樹園芸組合が創設され、桃作り熱はますます盛んになり、お寺の坊さんから酒屋のおじさんまで、まさに全村挙げての桃栽培となっていった。その後開業した東京横浜鉄道(今の東急電鉄)には桃を運ぶための引込線まで作られ、「綱島の桃」は全国に出荷されるようになり、「東の神奈川、西の岡山」と言われるほどとなった。
●桃畑と鶴見川を渡る東京横浜鉄道
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品評会入賞の常連。なんと288万個の出荷量。 大正11年7月の東京博覧会で銅牌を受賞して以来、綱島の桃は、数々の品評会で多くの賞を独占した。綱島の桃が品質日本一と評されるにしたがって、銀座・千疋屋、新宿・高野、新橋・水信など東京の超一流果物店が競って販売するようになった。昭和4年頃にはトラック輸送が普及し、それまで横浜経由だったものが東京へ直接運ばれるようになった。地の利を活かし完熟した果実を産地から直接届けられること、特に日月桃は6月末には店頭にでるため初物好きの江戸っ子に好まれたこと、などからますます綱島の桃の人気は不動のものとなった。昭和6年頃には、24万箱、約288万個の桃を生産・出荷するまでになった。この頃、神奈川県の桃生産高が岡山を抜いて日本一となった。
●「綱島の桃」の出荷用ラベル
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洪水と戦争、綱島の桃を悲劇が襲った 昭和13年、未曾有の豪雨により鶴見川は大洪水を起こした。3年後の16年にも再び大きな洪水が起こった。元々水害に強かった桃も、この二つの洪水では大きな打撃を受け、多くの農家が桃の栽培を断念するようになった。やがて太平洋戦争がはじまるに至っては、食料増産の名のもと「嗜好品の桃より米や麦を作れ」という軍の命令もあり、桃の栽培は次第に減少していった。
経済成長と引きかえに、綱島の桃は桧舞台を降りた
昭和20年の終戦の後、再び桃の栽培が始められた。果樹園芸組合も復活し、地場産業として桃を復活させようという機運も盛り上がった。しかし、戦後日本の工業化、都市化の流れの中で農村だったこの地域に、工場が進出し始めた。非農業人口の増加とともに宅地需要が増大していった。また、綱島温泉の盛隆とともに、温泉旅館が次々開業を始めた。こうした中で、農業をやめ土地を売る農家が次々現れ桃農家も減少していった。昭和40年代になり、とうとう桃栽培の創始家である池谷家の畑を除いて桃農家はすべてなくなった。
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