歴史-62

東照寺

所在地 港北区綱島西1-13
現住職 程木徳山  開基生外意鉄  御本尊 薬師如来坐像

 綱島山大光院東照寺と号し。曹洞宗にて大乗寺末。
由緒については、慶安2年(1649年)大曽根村大乗寺第三世生外意鐵和尚の創建したところで、往昔は大曽根村にありましたが、いつの頃からかこの地に移ったといいます。本尊は薬師如来であるので、正徳のころ第五世恭呑和尚が山号を薬王山と改めましたが、宝暦2年(1752年)第十世良惟嶺元和尚が再び山号を元に戻しました。
 江戸時代島津藩と関係が深く、本道には島津斉宣の額があります。また歴代住職にも島津藩の出身者が多く、それを示す額や家紋付の茶器、太政官日誌などがあります。
 なお、東照寺は、橘樹・都筑十二薬師の札所であり、横浜七福神の一つである布袋尊を祀っています。

歴史-54

久光院

所在地 

 高野山真言宗准別格本山久光院は、200年余前東都世田に起源し、大震災にて崩壊しましたが、先師久光尼が当地に寺跡を移し、大師教会を設立。昭和20年当利真戒師開山。
 同45年現本堂落慶。御本堂は金剛界大日如来。ビルマより招来の仏舎利をはじめ、厄除不動、千手千眼観世音、准胝観音像、相撲の神様三吉大明神などが安置されています。

歴史-46

飯田家表門(長屋門)

所在地:港北区綱島台17ー5
所有者:飯田助知
建築推定年代:江戸後期
 

 飯田家は北綱島村の旧家で、慶長年間に現屋敷地に居住し、代々名主を勤め、助大夫を世襲した。現当主の助知は24代である。
 屋敷地は東西に長く、南側には小高い山があり、北側はかって水田であった。西側に公道が鍵手に折れ曲がるところが屋敷のジョウクチで全面に濠が囲っていた。現在は南側の濠しか残っていない。ジョウクチから濠を渡ると長屋門があり、主屋の前庭となる。
 屋敷は明治21年火災にあい、その時唯一焼け残ったのが表門(長屋門)であり、主屋はその翌22年に再建された。主屋は桁行20.0m、 梁間8.1mで寄棟造、茅葺で、大棟は大きな箱棟となっており瓦が葺かれる。表門は桁行18.4m、梁間4.5mの長屋門で、正面中央が通路、 左側に出格子窓がつく門番部屋と納屋があり、右側は穀(高床)となっている。寄棟、茅葺で、大棟は主屋と同じく箱棟、瓦葺である。
 当屋敷は、その周囲に濠を廻すなど、開拓名主としての土豪的屋敷構えをしている。表門は県の重要文化財の指定を受けている。
  表門、主屋、宅地及び墳墓地は平成6年11月1日、横浜市指定有形文化財の指定を受けた。

歴史-45

氷 場

所在地 港北区綱島台17(飯田助知門前右側山陰の地)
設置者 飯田助太夫廣配(ひろとも)
設置時期 明治初年

 飯田助太夫廣配(ひろとも)が勧業施策の一つとして行ったのが天然製氷事業である。たまたま廣配は来住した外人が盛んに氷を消費していることを見聞し、知り合いを介して明治初年、外国人某よりこの製造方法を聞き、苦心惨たんして改良に改良を重ね、産物として出荷できることになった。綱島の山腹に横穴をあけ湧水を得たり、山の湧水を利用したりして、山際に小さな浅い池を作り、夜の放射冷却で氷を得る方法で冬場に製造した。できた氷は45㎝位に切って、大綱橋の上流約100mの所に倉庫があり、そこに貯蔵し夏場に出荷した。澄んできれいな水があることが条件であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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歴史詳細(6)
歴史-47

成島柳北のレリーフ

所在地 

55.ラジウム泉自噴地
57.モニュメント像(舞い降りた愛の天使)
58.ストリートファニチャー彫刻
59.旧行楽園(毎日スポーツプラザ)
60.すもう場(綱島小学校)
61.六地蔵
63.横穴墓群
歴史-48

靴下博物館(坂田記念資料館)

所在地 港北区綱島西5-4-5 045-541-4257
土、日、祭日を除く10:00~17:00事前に電話で予約すること。

 日本の靴下の歴史がひと目で分かる日本で唯一の靴下の資料室で「靴下博物館」の愛称で親しまれています。ナイガイの元専務、坂田信正氏の遺業をたたえ、その功績を記念して昭和53年4月に設立されました。

50.庚申塔・地神塔
51.青山学院グランド・馬場
52.早淵川揚水機場跡
53.鶴見川河畔(鶴見川花火大会)
歴史-56

綱島モール・パデュ通り

所在地

歴史-64

日限り地蔵

歴史-49

旧綱島堰・早淵川修景河畔

所在地 港北区高田町1359~新吉田町1265

 早淵川水系用水は、峰大橋より150m上流部に堰を(綱島堰)を設け綱島へ導水し、北綱島の台地を境に北側と南側に分水し、綱島西部一帯の田圃に入れられた。
 その後、機械揚水機が昭和23年6月頃、早淵川と鶴見川本流との合流点下流部に設置され、この堰は使われなくなったが、揚水機による水は堰の近くまでポンプアップされ、従来どおりの水路を通って昭和年頃まで用いられた。
 今、綱島堰があった早淵川の右岸の工場跡地にはマンションが建ち、土手側の民地は土手と同じ高さまで盛られ、近隣公園として整備された。その結果、すばらしい景観を伴ったうるおいのあるやすらぎの水辺空間が生まれた。

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